9/14は僕の都合で休講になってしまい、本当に申し訳ありませんでした。今後はよほどのことがない限り休講にはしませんので、安心してがんばって1限来てください。
さて、9/21=イントロダクション、9/28=ソシュールの話、とすでに2回の授業が終わってしまいました。初回21日の授業では、半期をとおしての授業のおおよその展望、成績評価の方法などを説明したのち、現代哲学が抱える問題が言語の問題へと回収されていくという話をしました。授業のなかで紹介した「言語論的転回」という用語自体は、授業でも話したとおり、リチャード・ローティというアメリカの哲学者が編集した論集のタイトルとして広く知られるようになった単語ですが、この言葉が意味する「傾向」自体は、アメリカに限ってみられる傾向ではありません。ただ、それがどういう意味かを一言で要約するのは難しい、というか不可能なので、今後半期の授業をとおして、「言語論的転回」というのがいったい何なのかということをそれとなくわかってもらえたらそれで十分だと思っています。
2回目28日の授業のテーマは、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールでした。ソシュールについての一連の話のなかで、一番強調したかったのは、ソシュールが、
・言語記号は、言語以前に個別化された対象に付けられたレッテルである(言語名称目録説)ではなく、むしろ言語が世界を分節化しているのであり、その分節化の仕方は言語によっていろいろである
・言語記号とその対象との結びつきもまた恣意的なものにすぎない
・言語のシステムにおいて大切なのは、あるもの(たとえばある音素)がほかのものではない、ほかのものとは異なるという否定的属性であり、その意味において言語のシステムは差異の体系である
と考えたことでした。こういった話題について、「そう考えると言語って薄っぺらですね」というコメントをもらいました。それはある意味であたっていると思います。ただもうちょっと厳密にいえば、言語よりもむしろ、僕たちが常日ごろから確固たるものであると無意識的に信じている現実のほうが「薄っぺら」だというべきかもしれません。すごい大げさかつおおざっぱにいってしまうと、「まず現実があって言語はその現実を語るものである」というモデルがじつは怪しいもので、じつは言語こそが現実を現実たらしめているのではないか、という認識の転換こそが、20世紀の思想の特徴だといえるかもしれません。
さて、次週以降の授業では、いよいよ構造主義の話に入ります。まずはクロード・レヴィ=ストロースという人類学者の仕事の紹介から入りますが、次回10/5は、ソシュールの復習+前回のやり残しの話をして、レヴィ=ストロースの話をするための準備、ぐらいでたぶん時間切れかな? 前回配布したプリントでも紹介しましたが、橋爪大三郎さんの『はじめての構造主義』なんかは、このあたりの話を理解する上ではとてもわかりやすい本だと思います。かくいう僕も、大学1回生のときにこの本を読んで、構造主義の勉強(?)をしました。その後、同じくプリントで紹介した内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』など、さらに新しい入門書が出ていますが、『はじめての構造主義』は今読み直してもわかりやすさという点では新しいものにもぜんぜん引けをとらないと思います。情報館にもあるようなので、時間があればぜひ読んでみてください。
このブログですが、来週以降、できたらこんな感じで授業後の週末に更新していきたいと思います。僕も10月はとくに、論文の締切やら海外出張やらいろいろ立て込んでいるので(でも残念ながら休講はなしの予定です)、どこまでマメに更新できるかわかりませんが、またヒマなときにでものぞいてみてくださいね。コメント、質問なども歓迎です。
追記:過去の講義プリントをWebからダウンロードできるようにしました。右→のサイドバーからどうぞ。とくに成績評価の方法などが知りたい人は初回(9/21)のプリントを参照してください。